選択肢があることの功罪

選択肢が多いことは、いいこととして語られることが多いと思いますが、本当はいいことばかりではないと思っています。

 

たとえば、不妊治療。子どもが欲しい人にとっては、あった方がいい選択肢かもしれません。でも、頑張ったからって子どもが授かると約束されているわけではない。そのたびにつらい思いをする人もいます。

選択肢があるからこそ、子どもをあきらめることがより難しくなることもある、自分の努力が足りないんじゃないかと自分を責めざるを得なくなることもある。

選択肢がなかったら苦しまなくてもいいことがある、そのことも、ちゃんと見る必要があると思います。

選択肢があるからこと、あきらめる選択をすることに意志と覚悟と責任がついてくる、選択肢がなかったら背負わなくていいもの、結果は同じなのに。

強い口調の非効率

国会がはじまりました。菅政権になってはじめての国会。早速野党が追求を強めているようです。

菅首相は、安倍元首相に比べて、野党の追求をうまく受け流すことが得意ではないように見えます。まだはじめたばかりでコツがつかめていないということもあるでしょうし、元々そういうことが得意なタイプではないということもあるでしょう。

菅首相の私の勝手なイメージは、裏方で誰かの右腕としてコツコツ戦略を立てるのが長けている人という感じ。野党の追求を受け流すには、おそらく菅さんは優しくて誠実すぎるのだと思います。受け流すには、ずる賢さや鈍感力が必要。でも、どんな人に総理大臣になってほしいかって考えたら、優しくて誠実な人がいいですよね。今の国会のやり方(特に野党の追求の仕方)だと、そういう人が総理大臣になった時に苦しくなりやすいと感じます。

 

強い口調は基本的に相手の防衛本能を働かせます。攻撃から自分を守るために準備するエネルギーが働くので、いい答弁をすることに割けるエネルギーが減ってしまうのです。

野党議員の強い口調での追求は、パフォーマンスもあるとは思いますが、日本を良くするという観点からすると非生産的だと思います。国会で答えたことは公式なものとして一生残りますから、安易なことは言えません。どこまで言って問題がないかを、一言一句考えながら答弁しています。仮に菅さんが、ここまで言っても大丈夫かなと考えようとしても、野党が強い口調で、しかも急かしてきたら、十分考える時間も余裕もないので、安全な範囲で答弁を繰り返すことしかできません。野党が求めている(と言っている)首相の生の言葉というのは、どんどん出づらい状況になる、そう追い込んでいるのは野党です。

 

そもそもああいう、何を言っても批判しますよっていう討論って、意味があるのでしょうか。責任を押し付けているだけのような気がします。自分たち(野党)は問題点を指摘したけど改善しなかった与党が悪い、と言うためのアリバイづくりのよう。問題点がない施策なんて存在しません。いかに最小化できるか、それだけの話です。その問題点とメリットと、どちらが大きいのか、何は許容できるのか、問題点をさらに小さくする方法はないのか、そういう提案をするのが野党の仕事なのではないですか。

 

国会をみているといつも気分が悪くて、もちろん与党がしっかり応えていない面も問題がないとは思いませんが、いつもいつも同じパターンで追求して、出さない方が悪いと言っている野党も、責任転嫁なんじゃないかと思います。企業だったら、同じやり方がうまくいかなければあの手この手を考えてやるでしょう。うまくいかないっていうことはそのやり方が良くないってことなのに、相手が悪いからだって、人のせいにしてなんの努力もしない人たちが国民の代表のように見えてしまって、とても残念です。

未知にチャレンジすることは怖い

大阪都構想が否決されました。

私は大阪市民ではありませんが、大阪都構想を心の中で応援していたので、とても残念に思っています。

痛感したのは、未知のものにチャレンジすることは、やっぱりとても怖いのだということ。

うまくいったという例もないし、こんなふうによくなると断言できるものもない(とても誠実で嘘のない姿勢だと私は感じましたが)という中で、それほど不満のない“今”を手放すリスクの方が大きいと判断されたのだと思います。

もっと気軽に、試しに一回やってみるということができたらいいのになと思いました。どちらか正解を選ぶというものではなく、どちらも問題がある中で、どちらの方がましかを選ぶものです。でも、やっていないものは比較することがとても難しいので、結果的に、今にどれだけ不満を感じているかということが反映されやすいのではないかと思います。

成立すれば、日本のこれからの在り方を考える第一歩になるはずだったもの。まだ、日本人のマインドがチャレンジよりも保守なのだと感じましたし(これだけ維新や吉村知事に人気があってもこの結果なのですから)、そうだとすれば、日本の古き悪き伝統が変わっていくにはまだまだ時間がかかりそうです。

 

府民、市民のことを真剣に考えてくれる政治家がまた一人引退される、企業と同じだと思いました。優秀な人材から順に見切りをつけて次のステップに進んでいく。そう考えたら、橋下さんや松井さん(、おそらく吉村さんも)に、大阪府大阪市は見切りをつけられた、という考え方もできるのかもしれません。もしそうだとすると、多くの企業と同じように衰退の一歩……?もちろん、今も橋下さんはメディアの力を活かして日本をよくするためにできることをされていると思いますし、松井さんもそうしてくださると思います。でも、私たちは、誰を大切にして、誰を見切るのか、ということを、これまで以上に真剣に見極めて行動していかなければならないのではないかと思いました。

 

今回の敗因の一つは、伝え方だと思います。私も、伝え方をもっともっと洗練していって、いざという時にちゃんと人に伝える力のある人間になっていきたいです。

こんな風になれたらいいなと思う人を見続ける

私は今、ひたすら麻雀にハマっています。今、自分に流れがあるのかないのかを感じとり、焦らずに選んでいくというのが、人生の修行のように感じていて、とても面白いです。麻雀のイメージがもっともっと変わっていってほしいと思う今日この頃。

麻雀にハマってからよく見るようになったのが、Vtuberの方の配信です。もともとかろうじて言葉を知ってるレベルでしたが、たくさんの方が頑張って活動してるんですね。システムとか、キャラ設定とか、いろいろすごいなぁと感心しています。

 

よく拝見させていただいているのが、千羽黒乃さんという方の配信。麻雀がとても強くて、解説もわかりやすいのはもちろんなのですが、相手にあがられてしまった時に、「お見事なのじゃ!」とさわやかに相手をたたえることができるのが、本当にすごいと思っています。麻雀は自分ではどうにもならない要素もたくさんあるし、悔しかったりイライラしたり焦ったりすることがあってもおかしくないと思うのですが、そういうところは見たことがありません。

大会で負けてしまったときも、すぐに自分の手を振り返って反省されるのが、本当にすごい。麻雀という勝負に真剣に向かっていて、自分が最善をつくせていたのかどうかを常に追求していると感じます。私だったら、とりあえずしばらく寝かせたい(見たくない)とつい思ってしまう……。

 

一緒にいる時間が長い人のクセや考え方がうつる、ということはよく言われると思うのですが、千羽黒乃さんの動画を頻繁に見ていたら、その考え方や気持ちの持ち方などが少しずつうってきたように感じていて、もしかしたら、一緒にいなくても、頻繁に接していればいいのかもしれないと思いました。

つまり何が言いたいかというと、身近に『こんな風になれたらいいな』と思えるような人がいない場合は、今の時代、YouTubeの中にそう思える人を見つけて、その動画をよく見るという方法もありかもしれないということです。

こういう方法は昔はなかったので、どんな人と出会えるかということが本当に大事だったと思います。もちろん今も誰と出会えるかはものすごく大事ですが、もし身近に『こんな人になりたい』と思える人がいなかったとしても、ネットの中にそう思える人を見つけて、見続けていれば、なりたい自分に少し近づけるというのは、すごい方法だと思いました。自分が『変わりたい』と思いさえすれば、チャンスはたくさん転がっている。こんな方法もあってもいいのではないかと、たくさんの方に知っていただけたらと思っています。

眼鏡が曇ると世界は輝く

寒い日に眼鏡とマスクをすると、眼鏡が曇ります。

曇った眼鏡をしながら、夜の道を歩くと、街頭などの光が七色に見えてキレイだということに、少し前に気づきました。

キラキラしていて、とってもキレイ。

 

いつも見ているはずの道、光、でも、いつもは見えていなかった色。ずっとそこにあるのに、見えなかったもの。

気づいていないけど素敵なものが、もしかしたらまだまだたくさんあるのかもしれない、と、その光を見るたびに思います。

そんなキラキラしたものをたくさん見つけられる人間でいたい。

 

もしかしたら、こころの眼鏡も曇っているくらいの方がちょうどいいのかもしれません。

すべてをはっきりくっきり見ようとすると、良くないところばかりが目についてしまう。

細かいことはむしろボカして、全体のキラキラを見ようとするくらいが、ちょうどいいのかもしれません。

飲み会の意義?

久しぶりに飲み会というものに参加しました。コロナ禍になって、3人以上の人との外食は、家族以外でははじめてでした。

今回は、4人、個室、ディスタンスを保っての開催。ちゃんと意識してます。

 

対面で話すと、やっぱりオンラインとは全然違う、空気感というか間合いがありますね。対面で4人で話すということからすっかりご無沙汰していたので、感覚を取り戻すのに時間がかかりました。オンラインでは4人とかで話すこともありますが、それはまた別の神経を使っているなと思います。もっと意識的にやるイメージ。対面の方が無意識の感覚、勘のようなものを収集している感じがあります。これは練習しないと、オンラインで身につくものではないですね。今年の新入社員の方とか、ちゃんと対面の機会を増やしてあげないと、ここが先々かなりネックになるかもしれないと思います。

 

久しぶりに飲み会に参加して感じたのは、やっぱり自分がしゃべりたい人がほとんどだということ。気を遣って話題提供してくださることもあるし、それはありがたく思っているのですが、それ以上にやっぱり自分の話をしたいという感じをビンビン感じました。

それで、私は聞こうとするのですが、4人だから、他2人が退屈していないかとか、気になってしまう。うーん、やっぱり飲みに行くのは2人がいいと思いました。ちゃんと話が聞けるし、そうするともっと全然違う深まり方をして、私も楽しめる。

 

ふと思いました。麻雀と一緒かと。少し極端かもしれませんが、自分が自由に話せることを「勝ち」と定義すると、4人いたら、単純計算で4回に1回しか勝てない、勝てない確率の方が圧倒的に高いんですね。麻雀は、負けた時のメンタルコントロールがとても重要なゲームだと思っているのですが、飲み会ではそういうこと教わりませんから、なんとなく楽しめなかったと思う人が多いのはむしろ当然なのかもしれません。

私はみなさんに楽しんでもらいたいと思うけど、2人だったら、確率的に半分は勝てるし、私がコントロールすれば相手にほとんど勝たせて気持ちよくなってもらったところで少し自分が勝たせてもらう、ということができる。でも、4人だと3人は負けになるので、どうしても多くの時間負けになるんですね、私のコントロールの範疇を超えています。

なるほど。4人以上の集まりは苦手と感じていた理由がやっと腑に落ちました。自分の力不足なのかと思っていましたが、どうしようもないレベルでした。

 

そう考えていくと、大人数の飲み会は、はじめての顔合わせの機会とかはいいと思うのですが、どちらかというと効率の悪い集まりなのではないかと思いました。一対一の方がよっぽどいい。まぁ、一対一でほとんど聞かされてしまうと、4人の時よりタチが悪いですけど。

 

この機会に、飲み会にはどんな価値があったのか、それを別の形で補えるのか、もっといい形がないか、ということを考えるのもいいのではないかと思います。

犯した罪を認めること

池袋暴走事故の初公判のこと、テレビなどで見ていて、とても悲しい気持ちになります。

ご遺族の気持ちを思うとやるせない…。

と同時に、被告の方は、いい気持ちで人生最期を迎えられるのだろうか、と気になっています。

 

この状況になったことが理解できなくはないとも思います。

被告の方は、これまで輝かしい人生を歩んできたように見えます。旧通産省の元院長という肩書、そこまで上り詰めるには、いろいろなものを犠牲にしてきたでしょうし、自分は頑張ってきたという自負もあるのではないかと思います。

高齢になって、できないことが増えていく自分を認めることは、とても難しいことです。私は以前、認知症の検査を実施する仕事をしていましたが、できないということを認めないで済むような工夫をしてはじめて、安心して取り組んでいただけるということを感じました。一般の方でそうなのですから、できることこそが価値とされてきた(のではないかと思われる)組織で成功してきた方にとって、できない自分を認めることはとても怖いことなのではないかと思います。車の運転を医師に止められていたという話も聞きますが、そこで立ち止まれなかったのは、輝かしい自分の記憶の方を信じたかったのかもしれない。

 

被告がひどいという論調をよく見ます。もちろんご遺族の立場で考えればそれが当然の感情だと思うのですが、フラットに見たときに、そういう風にできないことを認めづらい社会を作ってきてしまったこと自体を問題視すべきなのではないか、もしこの人と同じような人生を歩んできたら、多くの人が同じ行動をとらざるを得なくなるのではないか、と思ったりもします。

車のせいだと主張する、そう信じるのは、自分を守る行動なのだと思います。できるということで自分の価値を築き上げてきた人にとって、今回のことを認めるのは、築き上げてきたものが崩れ去るという危機感が無意識にあったかもしれない。認めないことで、かろうじて自分を守っているのかもしれない。少なくとも、被告の方にとっては、認めることよりも認めないことの方が自分を守れそうだという感覚が無意識にあるのだと思います。その感覚は、これまでの人生経験から構築されてきたものでしょう。

 

社会全体が、失敗に対して不寛容すぎることが、ずっと気になっています。不寛容になればなるほど、やり直せるという安心感がもてないので、失敗を恐れてチャレンジできなくなるし、失敗と向き合うことが難しくなります。でも、今回の公判では、罪を認めてちゃんと謝罪することを多くの人が求めている。だったら、それが安心してできる社会をどうしたら作っていけるかということを、みんなで考えていきませんか。そんなメディアが増えていってほしいと思います。

 

今回の件は、たとえば、検察の取り調べの時や、弁護士との対話のときに、カウンセリング的な関わりをするということがあったら違う方向にいける可能性もあったのではないかと思います。犯したことに一人で向き合うことはとても苦しいし難しい。同じ立ち位置で、一緒に見ようとしてくれる人がいたら、時間はかかるかもしれないけど、現実と向き合うことが今よりできていたのではないかと、期待も込めてそう思ってしまいます。だって、そこまで上り詰めた方、賢くて、冷静に考えたら何が最善かきっとわかる。それを妨げているのは、きっと、感情であり、自分を守るための防衛反応です。

 

責めるだけじゃない、一緒に考えることが当たり前の社会を作っていきたいです。