久しぶりだからこその不安

久しぶりに友達と会って、なんとなく不安を感じることがありました。

出会うまでの時間のドキドキ、話している間のドキドキ、もともとあったのかもしれないけど、コロナで人と会わないようになって、前はなんとか慣れてたものがリセットされてしまったのかもしれないと思いました。

必要以上に話したり、いつもより大きくリアクションしたりしていると感じる自分。

人とコミュニケーションをとるって、こんなに難しくて大変で神経を使うものだったのかぁ。楽しいけど疲れる。でもコミュニケーションがなくなると人間は生きていけないと聞くから、難儀な生き物だなぁと思います。

スマホが奪ったもの

スマホは本当に怖いツールだと、つくづく感じています。もちろんとっても便利で、いろんな情報も簡単にとることができて、連絡もすぐ見れて、だからついついみてしまう。座ったらスマホ、一段落したらスマホ、なんでもスマホ

これが、いつのまにか大事なことを忘れさせているような気がしています。

 

たとえば、記憶力が落ちたような気がします。ついさっき何を考えていたのか、思い出せない。もしかしたら、ついついスマホを見ることで脳が切り替えることに上手になる代わりに、覚える力を失っているのかもしれないと思いました。

それに関連して、気持ちもおざなりになっているように感じます。気になることがあっても、ついついスマホを見たらその気持ちがどこかへいってしまって、ちゃんと感じてあげることができないまま、また次も同じことが気になって、の繰り返しになっているような気がします。

 

自分の気持ちや感覚、記憶、といったものが、スマホによって奪われているのかもしれない。

そう考えると、とてもおそろしいです。

でも、じゃあスマホを持つのをやめるかと言われたら、やめない、便利すぎるから。昔はもってなかったはずなのに、と思うと不思議で、それもまたこわいです。

 

この場所ではスマホは使わない、という場所を作れたらいいなぁと思っています。

否定することで自分を守る

カスタマーハラスメントとか、リモートハラスメントとか、いろんな言葉が出てきました。

こうしたニュースを見ていつも思うのは、自分を守るために必死なんだなぁということ。ハラスメントをしている側の人のことです。

もちろん、ハラスメントを受けた方々は本当にお気の毒だし、自分がされたら悲しくて腹立たしくて、許せません。もちろんそうした気持ちはちゃんともっています。

でも、そのうえで、なんでこんな悲しいことが起きるのか、なぜそういうことをせずにいられない人がいるのか、というところまで考えたいと思うのです。

 

見ていて感じるのは、否定できるものを片っ端から否定しないと、自分が崩れてしまいそうな感じをもっているのではないかということ。もちろん無意識で。

たぶんどこかで自分がズレてしまったことに気付いている、けどそれを認めることがあまりに恐ろしすぎて、否定するしかないのかもしれません。そして、ずっとくすぶっている怒りや不満、不安、寂しさ、とかが、行き場がなくてハラスメントという形で出てきてしまうようにも思います。

だからといって、許容できるわけではないんですが、やる人がおかしい、ひどい、排除すればいい、という単純な話にしてしまうのはきっと適切ではなくて、この人たちがひどいことをしないですむ方法を考えたいです。

 

私は、ここまでこじれた人を抱えることがとても大変だし自分がうまくできる自信がないから、もっと早く手を差しのべてあげたい。自己責任だと見放す世の中をもう少し変えたいです。

ストレッチと勉強

久しぶりに自宅でヨガをやりました。私は愛用しているヨガDVDを見ながらやることにしています。

ヨガをしていて、久しぶりに体が伸びていることを感じました。家でばかり過ごしていると、体が伸びなくても何も困らなかったし、伸ばすことも忘れていたかもしれません。久しぶりに体は伸びるのだということを思い出して、体の伸ばし方を思い出しました。

 

ふと思いました。勉強って実は頭のストレッチなんじゃないかと。

ストレッチを学んではじめて体の伸ばし方をや使い方を知ることがあるように、勉強も、頭の使い方、考え方を学ぶことが目的なんじゃないかと思いました。たとえば、国語の勉強を通してそういう価値観もあることを知る、歴史の勉強を通して過去の経験を学ぶ、理科の勉強を通して身の回りのものがどんな風にできているのかを知る、多くのことが、今まで知らなかった視点を持つことにつながっている。こういう見方もできるかもしれないという発想を身に付けることができる。

けして知識を覚えるためではない。

 

私の愛用しているヨガのDVDでは、できないという概念はなくて、できることを無理なくやること、自分の感覚を大切にしてあげることを伝えてくれています。勉強も同じなんじゃないかと思うんです。できないことが問題ではない。できないならできないなりの自分とうまく付き合っていくことの方が大切で、できないことに劣等感を抱かせる必要はないんです。

勉強ができることだけが最高の価値ではまったくないし、それよりも大切なことはたくさんある。たとえば、勉強はできなくても学校を楽しむことができている子がいるとしたら、それは素晴らしい能力です。

 

先生の本来の仕事は、その子に合ったストレッチの仕方、勉強の仕方を見つけることなのかもしれません。従来の計算の仕方ではうまくできないなら、別の方法を見つければいい、それも見つからないなら、誰に助けてもらうといいかを考えればいい。計算ができることが大事ではなくて、計算は生きるために役立つから、その方法をいかに獲得するかの方が大事。

その子なりのストレッチの仕方が見つかればいいんだと思います。

 

突き詰めて考えると、いろんなことの根本は同じように感じて、不思議です。

便利とバーターの衰え

すっかり引きこもり生活が定着しました。

ほとんど座る生活をしていると、姿勢を維持したり、立ったりする筋肉が衰えますね。

疲れやすくなってると感じます。

 

オンラインで何事も済むというのはとても助かるし楽ですが、便利になるということは、人間の能力が退化していくことでもあるんだなぁと、実感しました。

便利が当たり前になると、ありがたさも感じなくなるし、幸せとか感じづらくもなるように思います。むしろ足りないことが必要以上に気になったりとか。

便利とハサミは使いようというか、便利がすべてプラスと思いすぎないことは大事かもしれません。

運動しなきゃな、、、困らないとやれないのが人間でしょうか。やる気が出ない自分にも困る今日この頃です。

何かを買うこと、政治家を選ぶこと

何かを買うとき、様々な要素を総合的に判断して、買うものを決めていると思います。

たとえば車を買おうと思うとき、ブランド、大きさ、燃費、デザイン、機能、金額、などを踏まえて、自分の理想に近いものを選びます。すべてが自分の理想どおりということはなかなかないと思います。ここのデザインがちょっと嫌だな、とか、この機能はこっちの車の方がいいな、とか、これは完璧だけど高すぎて手が出ない、とか。

この感じ、政治家を選ぶ感覚に近いなと思いました。

 

一つ一つの政策の考え方を見たら、自分と考えが同じものもあるし違うものもある。すべてについて、自分とまったく同じ考えの政治家はおそらくいないでしょう。じゃあ投票しなくていいのか。いろんな考え方があると思いますが、私は、完璧ではないけどましな政治家に投票する方が、投票しないよりいいのではないかと思っています。概念的に考えると、ほんの少しでも自分の生活がよくなる可能性が上がるからです。何もしなければ変わらない、ましな政治家に投票したら、概念上はよくなる確率が上がる。ま、実際はそんな単純ではありませんが。

 

しばらく前までは、消去法で仕方なく投票していました。もちろん、消去法というのはこれからも変わらないかもしれません。でも、今ある選択肢の中から、より『まし』な選択肢を選ぶ、というのは、とても合理的で、大切なことなのではないかと思いました。少なくとも、車を買うように、お金が出ていくことはないし、損をすることはないですから。

良い音を聴く

念願だったオーディオコンポを、ついに購入しました!!!!

いやー、しばらくはテレビいらないっていうくらい、テンション上がってます(笑)

 

持っていたCDを再生してみるとビックリ。今まで聴こえてなかった音がたくさんあることに気づきました。

こんなに素敵な音を作ってくれていたのに、聴く力がなくて、気づいていなかったんですね。

作り手の方々が、どれだけ音にこだわって作ってくださっているのか、こうして良いオーディオで聴いてみてはじめてわかりました。

 

どれだけ発信してくれていても、受け止める力がないと見えなくなってしまう、音楽も、人の心も、同じなのかもしれないと思いました。

心地いい音楽は、心が元気になります。

仕事ももっと頑張れそうな気がするのは、音楽の作り手の方々の想いが今までよりずっとずっと伝わってくるから。

こんなに気持ちを込めてくださっていたのだと気づくと、私も頑張ろうと思えます。

音楽を作ってくださっている方、そして、良い音で聴けるようにしてくださっている方々、皆様に感謝感謝です。