犯した罪を認めること

池袋暴走事故の初公判のこと、テレビなどで見ていて、とても悲しい気持ちになります。

ご遺族の気持ちを思うとやるせない…。

と同時に、被告の方は、いい気持ちで人生最期を迎えられるのだろうか、と気になっています。

 

この状況になったことが理解できなくはないとも思います。

被告の方は、これまで輝かしい人生を歩んできたように見えます。旧通産省の元院長という肩書、そこまで上り詰めるには、いろいろなものを犠牲にしてきたでしょうし、自分は頑張ってきたという自負もあるのではないかと思います。

高齢になって、できないことが増えていく自分を認めることは、とても難しいことです。私は以前、認知症の検査を実施する仕事をしていましたが、できないということを認めないで済むような工夫をしてはじめて、安心して取り組んでいただけるということを感じました。一般の方でそうなのですから、できることこそが価値とされてきた(のではないかと思われる)組織で成功してきた方にとって、できない自分を認めることはとても怖いことなのではないかと思います。車の運転を医師に止められていたという話も聞きますが、そこで立ち止まれなかったのは、輝かしい自分の記憶の方を信じたかったのかもしれない。

 

被告がひどいという論調をよく見ます。もちろんご遺族の立場で考えればそれが当然の感情だと思うのですが、フラットに見たときに、そういう風にできないことを認めづらい社会を作ってきてしまったこと自体を問題視すべきなのではないか、もしこの人と同じような人生を歩んできたら、多くの人が同じ行動をとらざるを得なくなるのではないか、と思ったりもします。

車のせいだと主張する、そう信じるのは、自分を守る行動なのだと思います。できるということで自分の価値を築き上げてきた人にとって、今回のことを認めるのは、築き上げてきたものが崩れ去るという危機感が無意識にあったかもしれない。認めないことで、かろうじて自分を守っているのかもしれない。少なくとも、被告の方にとっては、認めることよりも認めないことの方が自分を守れそうだという感覚が無意識にあるのだと思います。その感覚は、これまでの人生経験から構築されてきたものでしょう。

 

社会全体が、失敗に対して不寛容すぎることが、ずっと気になっています。不寛容になればなるほど、やり直せるという安心感がもてないので、失敗を恐れてチャレンジできなくなるし、失敗と向き合うことが難しくなります。でも、今回の公判では、罪を認めてちゃんと謝罪することを多くの人が求めている。だったら、それが安心してできる社会をどうしたら作っていけるかということを、みんなで考えていきませんか。そんなメディアが増えていってほしいと思います。

 

今回の件は、たとえば、検察の取り調べの時や、弁護士との対話のときに、カウンセリング的な関わりをするということがあったら違う方向にいける可能性もあったのではないかと思います。犯したことに一人で向き合うことはとても苦しいし難しい。同じ立ち位置で、一緒に見ようとしてくれる人がいたら、時間はかかるかもしれないけど、現実と向き合うことが今よりできていたのではないかと、期待も込めてそう思ってしまいます。だって、そこまで上り詰めた方、賢くて、冷静に考えたら何が最善かきっとわかる。それを妨げているのは、きっと、感情であり、自分を守るための防衛反応です。

 

責めるだけじゃない、一緒に考えることが当たり前の社会を作っていきたいです。