研修の権威

研修の目的は、受講者の行動を変えること。

そのために、情報を提供したり、考えてもらったり、受講者に合わせて最大限の効果を発揮する研修を模索する。

はずです。

眠くなる、退屈であるということは、少なくともその情報が脳にとって必要な形になっていないということでしょう。

そうした時間であっても、ただ静かに座って聴いているフリをすることに、なんの意味があるのか。

全体の生産性を考えたら、眠くて退屈な研修なら、受けないで仕事したり好きなことをしたりする方がよっぽど価値がある。

でも、眠くなるのは受講者の責任かのように考えられるのが一般的。

 

ここって、とっても日本的でダメな部分だと思います。

その人にとって一番いい時間であることが、本当は大切にされるべきです。

退屈なら退席してもいい。ご飯食べてもいい。おしゃべりはまわりの迷惑になるからやめてね。

 

自分にとって必要かそうでないかを自分で判断できないうちは、まず一生懸命受けてみようね、というフェーズも必要だとは思います。

何よりも遊ぶ方が楽しい時に、ずーっと遊んでいていいのか、それもまた一つの生き方のような気もしますが、勉強するということもチャレンジしてみる価値はある。

でも、自分で必要かそうでないか判断できるようになった後は、研修を受けるか受けないか決める権利があってもいいのではないか。それは講師を否定するという意味ではなく(それを含むことも多分にあるけど)、少なくとも“今の自分”にとって、この時間の価値が低いと判断しました、という意思表明として受け取ってほしいと思います。

 

先生は尊重すべきだけど、それは先生だからではない。自分のことを一生懸命考えて行動してくれてるからです。

先生崇拝もおかしいし、先生を下げすぎるのもおかしい。

 

自分に必要なものを選びとっていく力が、これからの時代は特に大事になってくるのでしょう。

そのベースには、自分を大切にできること、自分を大切にしてもらった経験が必要です。

そうした経験が少なくなっているのかもしれません。