勉強ができることと、職人

勉強ができることがそれほど絶対的な価値であるのか、甚だ疑問が出てきました。

学校でいい成績をとって、いい大学にいって、いい会社に入る。

もしみんながみんなそうなってしまったら、手に職の仕事はどうなってしまうのか。

 

昨日、会社が漏水して、結構な事件だったのですが、なんとか原因らしきものまでは自力でたどりついても、結局対処まではできなかった。

職人さんを待つしかありませんでした。

ふと考えました。勉強がものすごくできていたらこの人たちは職人になっていないかもしれない。

 

勉強ができることはもちろん価値があります。

いろんなことを吸収しやすいし理解しやすい。有利だとは思う。

でも、それができないからって生きていけないわけじゃないし、学校の勉強という形じゃないところから勉強につながることもたくさんある。機械をいじるのが好きで、仕組みを知ろうとして、その背景にある数学に通じることだってある。

学校の勉強は、なんのためにやるのかを伝える努力をしていないし、一人一人の関心につながっていないから、面白くないのだと思う。

若い頃の貴重な時間を、苦痛の時間に耐えることに使わせているのだとしたら、なんてもったいないんだろう。不登校大賛成、面白い授業ができていないことをこそ反省すべきであって、子どもの責任にしてはいけない。

 

もし、勉強ができないことで自己価値観が下がっている、もしくは下げられている人がいるならば、全然そんなことはないということを伝えてあげたいです。そういう世界から救い上げてあげたい。