こころの許容範囲を広げる

こころの許容範囲を広げることは、人生のテーマの一つかもしれないと思います。

私自身は、臨床心理学を志したこともあり、こころの許容範囲を意識しながら生きている方だと思いますが、普段意識していない人たちも、無意識的に、こころの許容範囲と向き合っているのかもしれないと思います。

 

たとえば、こころの許容範囲が狭い人と一緒にいると、敏感な人ほど緊張してしまいます。許容範囲の中に入らなければと頑張りますし、そこから外れてしまうと、攻撃されたり、不愉快な態度をとられたりするので、疲れてしまう。それが積み重なると、うつになったりすることもあります。

 

たとえば、仕事で若手が何か失敗をしたときの対応で、こころの許容範囲って明らかに差が出ます。

もちろん失敗ですから、仕事の許容範囲からは逸脱しています(本当は、仕事もある程度の失敗を見越して進めているはずなので、仕事の許容範囲内でもあることの方が多いと思いますが、ここでは形式的に、成功か失敗かで許容範囲を整理しておきます)。

ただ、こころの許容範囲は人それぞれです。

「若手だし、すぐにできる方がすごすぎる、失敗をフォローしながら育てるのが先輩の仕事だ」と、失敗を責めるのではなく、失敗をしたことを認め、一緒に考えることのできる人は、若手の失敗を、こころの許容範囲内に入れられている人です。

一方で、「こんなに忙しいのになんてことしてくれるんだ。こっちの仕事が余計に増えたじゃないか。一回教えたことがなんでできないんだ」と、直接言わないにしても、態度に出たり、その若手に冷たく接するようになったりする人は、こころの許容範囲が狭い人です。そういう人は、若手を追い込んでつぶしてしまうこともあるし、少なくともその人の力を引き出すのではなく抑圧する方向に働きかけてしまいます。とてもとてももったいない。

 

こころの許容範囲は、こころの安心、安定とリンクしているのではないかと思います。

どこかに、そうしたことを書いてくださっている本や論文がありそうです。

誰かに自分をちゃんと認めてもらった経験があること、それから、自分で自分を、嫌な面も含めて認めてあげられていること、そうしたことが、こころの許容範囲に影響していると思います。

 

そう考えていくと、家庭に恵まれない子どもたちの、教育格差については是正しようとする制度がありますが、こころの許容範囲の広い人と接する時間をたくさん提供することの方が、長い人生では大切なのではないかと思います。

教育は、その気になればいつでも受け直すことができるし、大人になって問題意識が明確になってからの方が吸収の早いこともあります。それに、こころの安心がないときに教育を受けても、それどころじゃない。吸収する余裕がないかもしれません。

こころの許容範囲は伝染します。狭い人と一緒にいると狭くならざるを得ない、そういうやり方しか学ぶことができないし、自分のこころの安全が常に脅かされているから、自分を守るためにこころの許容範囲を狭くせざるを得なくなってしまう。

子育ての問題を考える時に、この点は非常に大事なのではないかと思います。

 

ちなみに、もともとこころの許容範囲の広い範囲でも、身体や心の疲れが溜まると、こころの許容範囲が狭くならざるを得ないことがあります。たとえば、子育て中のお母さんも、子どもが生まれる前はこころの許容範囲が広い人だったけど、子どもが生まれて、時間に余裕がなくなって、狭くならざるを得なくなっている人もいるかもしれません。職場の上司も、本来優しい人でも、多忙で睡眠不足が重なって、余裕のなくなっている人はいるかもしれません。

こころの許容範囲は、広さですから、人それぞれ広さが多様です(私の中のイメージです)。本当に広い人は、余裕がなくならないように工夫をされていると思うので、狭くなることもないかもしれません。そこは、広さの濃淡があるのだろうと思います。

 

その人のこころの許容範囲が見えるレーダーがあったらいいのかも、と思いましたが、見えることで余計疲れることもある。見えすぎるからこそうつにならざるを得ない人もいるので、見えることがいいということでもないのかなと思います。でも、少なくとも今の自分のこころの許容範囲がどれくらいなのか、見えるようにすることは、大切なのではないかなと思います。思ったより狭かったとしても、落ち込んで後悔や自責に走るのではなく、ほんの少しずつでも広げるために試行錯誤する、そのサポート体制もあるとなおいいと思います。

 

みんながこころの許容範囲を広げていけると、もう少し生きやすい世の中になるのではないかと思うのです。

カウンセリングは、おそらくここを広げる手伝いをする場所の一つ。私たちの領域も、とても大切な役割を担っていると感じます。